2011年8月15日月曜日

19:国が切り裂かれた日1961年8月13日

日本でも報道されたように。昨日8月13日はベルリンの壁が構築された50周年記念日でした。
1961年のこの日から89年11月9日の崩壊まで、ベルリンを分断しただけでなく、ドイツそのものをふたつに引き裂いた壁が撤去されて20年以上を経ても、これがドイツ社会に残した傷は、いまだに癒えることのない痛みを覚える生傷としてあります。
昨晩の公共テレビのニュースは、「この日はドイツ現代史に『刻み込まれた日/eingeschnittener
Tag 』であった」と冒頭に伝えています。ここで形容詞と使われている der Einschnittという名詞は、医学用語で「切開」のことです

実は、ドイツの脱原発へ至る過程で、メルケル首相はフクシマの事故について当初は「フクシマはZäsur/区切り」であると表現していました(第3回を参照してください)。ところがしばらくして、首相以下政府の表現が「Einschnitt」へと公的表現が統一的に変えられています。以来、政府声明や国会の議論に頻繁に出てくるこの言葉を、日本語でどのように伝えるかについて、わたしは苦心しました。というのは、この言葉がドイツ政府のフクシマへの見方と決断の実はキーワードであるからです。

「フクシマは転機でした」と一般的に翻訳することもでき、これは確かに判り易いのですが、単なる「転機」以上の深い切り込んだ意味があるのです。そこで『世界』8月号の寄稿では、倫理委員会の報告書や首相発言に頻発したこの言葉を「切れ目」と翻訳しました。「メスで切開する手術」の意味があるからです。つまり 首相以下ドイツ政府の決断の深さがこの一語に表現されているのです。不可逆の決断をひと言で表現しているからです。

壁が構築された日も、「歴史の切れ目」でした。しかしそれは、脱原発とは対極で、大きな犠牲をもたらした悲劇的な切れ目でした。国と国民が、家族が、親子兄弟が切り裂かれた日でした。写真でその50周年の様子を伝えましょう。冒頭の花輪は、この日、壁の犠牲者に捧げられた花輪のひとつです。

作日のベルリンは悪天候の続くこの夏としてはめずらしく、好天に恵まれた1日でした。中央駅のホームから議員会館越しに見える国会の屋上のドイツ国旗もベルリンの壁を越えようとして命を落とした、すなわち殺された人々を追悼して半旗となっています。






これは壁を保存してあるベルナウワー通りの壁記念施設で行われた中央記念式典の写真です。
ちょうど正午にはベルリン中の教会の鐘が鳴らされ、全市で一分間の黙祷が行われました。公共交通機関も3分間停止しました。その時の写真です。式典に集まった市民は10000人と報道されています。

Bernauer Strasse am 13,August 2011 um 12Uhr
その時の一部拡大写真です。犠牲者に献花したベルリン市長、連邦大統領、連邦首相、両院議長らが黙祷している姿です。

この写真は、通りの反対側にある記念館の展望台からその時を撮影したもので、公共テレビの実況中継のカメラと、内外の通信社2社のカメラマンとわたしだけが、このアングルから撮っています。








式典のそばからの写真はシュピーゲル誌の電子版で見て下さい:http://www.spiegel.de/fotostrecke/fotostrecke-71565.html
 ここではワイツゼッカー元大統領も杖を手に参加されている写真も見えます。

黙祷の後に国歌が斉唱されたのですが、続いて「Die Gedanken sind frei/思想は自由だ」という、200年以上の伝統のある学生歌が合唱されました。この古い歌謡はナポレオン支配下に広がり、1848年には革命歌となり、さらに歌い続けられ、1989年の東ドイツの民主革命でも歌われたものです。
追伸15日:白バラ抵抗運動で兄のハンスとともに死刑になったソフィー・ショルが、1942年の夏に彼らの父親が、自宅の事務所でヒトラーへの悪口を言ったことが密告されゲシュタポに逮捕され懲役4ヶ月の刑に処せられたことがあります。それまでナチス少女団/ヒトラーユーゲントの女性組織に積極的に参加していたソフィーが反ナチに変わったのはこの事件が契機になったのではないかとの説が、最近の研究で出てきています。確かなのは、ソフィーは収監されている父親を訪ねた際に、牢獄の壁の外から父親に聴こえるように、フルートでこの曲を吹いたとのことです。)
今でも権力の横暴に抵抗する歌として愛唱されています。これを大統領以下国家首脳が、市民と一緒に合唱する光景は、この国の民主主義の成熟度の現れであると言えましょう。

素朴で単純な歌詞ですが、日本語の定訳が無いようです。不思議なことです。
以下でいくつかの実例が聴けます。中国語の対訳があるのが面白いところでしょう:

http://www.youtube.com/watch?v=2Bcsi1_UW5k&nofeather=True
http://www.youtube.com/watch?v=-cwJQlsUf7U&nofeather=True


もちろん、政府首脳だけでなく、多くの市民団体も多くの花輪を壁際に捧げました。

式典の後、ヴルフ連邦大統領、ヴォヴェライトベルリン市長らが、なかなか良い演説をしたのですが、これには立ち入りません。続いて歴史の体験者のお年寄りたちが同じ舞台で証言をしたのですが、多くの年配の市民に混じって、若い市民や子どもたちも実に熱心に聞き入っていました。この様子もベルリンの公共テレビで実況中継されています。
このようにして、子どもたちも歴史の現場で、体験者の言葉を生で聴く体験を積み重ねるのが、ドイツの教育方です。
歴史の証言に聴き入る市民
 さて、ここベルナウワー通りの壁の現場は近年整備され、ベルリンの壁で命を落とし、これまでに判明している136名の犠牲者の記念碑もあります。

最後の犠牲者ふたりの顔写真ですが、右のクリス・ゲフロイさんが西ベルリンへの運河で射殺されたのは1989年2月5日、壁崩壊の9ヶ月ほど前でした。20歳でした。

ちなみに、花やロウソクとともに供えてある小石は、ユダヤ教徒が墓参で「忘れない」ことを示すために墓石の上に小石を置く風習が、ドイツで一般にも広がったものです。ドイツ人は政治教育でユダヤ人を追悼する行事にしばしば参加しています。そこからユダヤ人以外の歴史の犠牲者にも「あなたを忘れません」との意思表示が定着してきたのです。近年のことです。







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