2013年11月30日土曜日

207:特定秘密保護法は民主主義者を暗殺する。ドイツは暗殺の歴史をどのように官民で記憶しているのか。日本の国会議員のみなさんへ

 読者のみなさま、ドイツでは11月27日に新政権に向けた連立協定がようやく成立し、早速党首の記者会見がありました。本題に入る前に、長くなりますがこれに少し触れておきます。

 この日、内外の記者、おそらく数百人が押し寄せた会見で、世界中に報道されたのは、このメルケル、ガブリエル両党首のこのような笑顔の写真がほとんどですが、実際にはこの日の明け方まで17時間に渡る徹夜交渉で、恐ろしくタフなメルケル首相も、さすがに疲れ果てて実際には、ここでは気の毒なので、そんな写真は出しませんが、目の下に隈ができていました。
28.Nov.2013. ©T.Kajimura
 2時間近い会見では、大半が3党首とも深刻な疲れた表情で、交渉がどれだけ大変であったか、またどれだけ先行きが大変かもが、よく顔に現れていました。
28.Nov.2013. ©T.Kajimura

来月半ばには、この大連立協定に基づいて、第三次メルケル政権が正式に発足される予定です。ただし、社会民主党は郵送による党員投票で承認が必要としていますので
、その結果が発表される12月15日までは、連立が成立するかはまだ未定です。
2005年の大連立交渉もやはり総選挙から二ヶ月かかりましたが、今回は社会民主党の党内で大連立に反対の声が強く、ガブリエル党首が交渉成立の後に475000人の党員投票での承認を求めることを条件にしたため、現在全国の党支部で協定内容を巡って激しい論争が行われています。

 もし党員投票で否決された場合は、メルケル首相は年明けから、緑の党と連立交渉に入るか、あるいは再選挙に踏み込まざるを得なくなる可能性もあるわけです。
 ご覧のように、この日メルケル首相は、黒の上に緑の上着で、黒のネックレスで記者会見に現れましたが、夕方のテレビインタヴューでも「緑は希望の色ですから」と黒緑連立を臭わす発言をしていました。

 先の総選挙で大勝したメルケル氏にも、どうやら「過ぎたるは及ばざるがごとし」の政局になるのではないかとの印象がわたしの現在の見方です。

連立協定書。28.Nov.2013. ©T.Kajimura
本来は、記者会見を前に記者に配布された185ページもある連立協定書の内容、特に再生エネルギー政策についての見通しなども、簡単にでも報告したいのですが、日本で、編集者の皆さんが首を長くして待っていますので、政権の正式発足を待ってしかるべきところに正式に詳しい報告を執筆する予定です。

さて、本題です。
  日本ではここにきてついに、読売と産経を除くメディアもついに、圧倒的に特定秘密保護法案に反対する立場を明らかにして連日報道し、市民も立ち上がりつつあります。
それはそうでしょう。フクシマ事故で権力の秘密を許せば、命と財産が永久に失われてしまい取り返しのつかない被害に遭うことを、体験しつつあるのですから当然です。
 
 知る権利は民主主義社会の酸素のようなものですから、それを奪われては社会は窒息死します。そのことに気づいた市民が、ようやく超党派で自己防衛に立ち上がりつつあります。 12月6日にはこのような大集会が行われます。詳しくは→Stop!「秘密保護法」をご覧ください。
  
 この呼びかけにはこうあります;
 
法律ができたらジャーナリスト市民運動はもとより国会議員も処罰対象と なり裁判も秘密まま行われます官僚は情報をいくらでも闇に葬ることができます情報にかかわる人は周辺も含めて監視され続けます国は国会も 司法も手が出せない官僚独裁監視国家になってしまです

 全くそのとおりです。戦前戦中の監視闇社会の到来は目の前です。
まず標的とされるのは、報道関係者と市民運動でしょう。
 
 例えば、昨日のこの共同通信の報道→陸自、独断で海外情報活動。年月をかけた非常に優れた、日本の秘密のなかの秘密を指摘したすばらしい記事です。
これを暴かれた闇の権力者たちは怒り狂っていることは間違いありません。
来月にもこの法律が成立すれば、このような報道は不可能になるだけでなく、書いた論説委員の石井暁記者と情報提供者はさっそく、間違いなく捜査対象となり、刑務所にぶち込まれるでしょう。
これについては、琉球新報の29日社説→陸自機密情報部隊 憲法否定の暴走許されぬをご覧く下さい。
  まさに28日のデモでのこの写真のように「戦前かよっ」ですね。
田中龍作ジャーナルより借用します。感謝します(筆者)。
前回で、この悪法が市民の基本権を否定するナチ時代の予防拘束法と本質的に同じであることを指摘しましたが、今回は、80年後の今日、ドイツではその体験がどのように見られているかを、以下写真を主にした現状報告で示しましょう。ある国会議員の運命も紹介します。
  これは本年11月9日のブランデンブルグ門の写真です。この日付はドイツ史では宿命的なものです。ベルリンの壁が突然崩壊したのが、1989年のこの日の夜のことです。
また、1938年のこの日は、いわゆる→「帝国水晶の夜」と呼ばれる、ポグロムが本格化し、シナゴーグの焼き討ちとユダヤ人に対するむき出しの暴力行使が全国規模で起こされました。

 ナチス政権掌握80周年の今年は、ベルリンでは年間を通じて官民を挙げて多くの催しものが行われていることはすでに→ここでも報告したとおりですので是非お読み下さい。
そこで、今年はその企画のひとつである「破壊された多様性」の締めくくりのイベントがブランデンブルク門を舞台にして、記念日の翌日の10日の日曜日に行われました。その準備の写真です。バツ印はナチスの歴史を否定するこの企画のロゴです。
この日、暗くなる頃は冷え込んで気温は零度近くなりましたが、パリ広場側では多勢の市民が詰めかけ、ユダヤ人だけでなくナチスによって迫害され、ドイツが失った人々の写真が門をスクリーンとして次々と映し出されました。
そして、ベルリンの各学校の歴史と社会科の授業ではこれをテーマとした生徒たちによるビデオ作品が数多く制作されましたが、そのなかで優秀な作品6点が上映され、それを創った生徒たちもベルリンの教育長官から紹介されました。みんな中学生の年齢で、移民の子どもたちが多いのがこの写真でも判ります。
紹介される生徒たち。右が教育長官アンドレ・シュミット氏 ©T.Kajimura
 その様子を見ながら嬉しそうにしているのは、この日招待された迫害を生き延びたお年寄りふたりです。右は日本でも「黄色い星を背負って」などの著作で知られているインゲ・ドイッチュクローンさんです。この日、子どもたちにも「破壊された多様性」が記憶として受け継がれていくことを確認する生存者の笑顔です。
Margot Frieländer,(l.), Inge Deutschkron 10,Nov.2013,Berlin ©T.Kajimura

このような、負の記憶の継承が、敗戦40周年の1985年の市民運動から始まったことについては、これまでもわたしは繰り返し多くのところで書いてきました。
これについて、シュミット長官はこの日の挨拶で、「30年近く前に市民運動が始められたころには、政治は聞く耳を持たなかった。ここまで来ることができたのは市民運動のおかげであり、まさに彼らの1世代をかけたプロジェクトの成果です」と述べています。

 そして、日本の国会が戦前戦中に逆戻りする悪法を成立させようとしているのと対称的に、ドイツの連邦議会はこのような、負の歴史の記憶とどのように向かい合っているのかを象徴する記念碑二つを、先に「ナチスから改憲の手口を学べ」と「あほう太郎」が述べた際に紹介しておきました。そのひとつ議事堂地下の芸術作品をわたしが撮影した写真で再び紹介しておきます。これらについては詳しくは→こちらをお読み下さい
以下は8月のこの報告の続きとしてお読み下さい。
©T.Kajimura
この議事堂地下の芸術作品はこのように裸電球に照らされて、非常に大きなものです。
そのひとつ、ヒトラーの氏名は「ADOLF HITLER NSDAP 1933」としてあります。
©T.Kajimura
もうひとつの議事堂の外には、当時ヒトラーと議席を同じくしており、ナチスによって殺された国会議員98人の記念碑のことも写真で上記に紹介しておきました。
その一人について以下紹介しましょう。前回書きましたように、このような悪法がまかり通ることになれば、日本の国会議員も暗殺を逃れて亡命せざるを得なくなる日が現実的になりそうだからです。

 わたしがこの人物について知ったのは、つい最近のことです。すなわち11月9日のポグロムの記念日です。この日ベルリンでは、市民運動により12カ所の地域で「つまずきの石を訪ねて磨き、犠牲者を追悼する」行事が行われ、わたしも居住地のそれに参加したのです。
 今では、ドイツの過去の克服の教育に関心ある人にはよく知られている「つまずきの石」について、敗戦60周年の2005年にわたしは→季刊『前夜』5号への寄稿でふれていますので、その部分だけを引用しましょう。これは今では世界的に有名な虐殺されたヨーロッパのユダヤ人追悼記念碑の完成の前史を報告したものです。その一部に知られていない「つまずきの石」について以下のように書いています。長くなりすぎるので掲載分の写真は省きます。


「つまずきドイツと日本歴史認識落差」より一部引用


・・・・・・(前略)
 さて、グンター・デムニッヒという一九四七年、ベルリン生まれの芸術家がいる。現在住んでいるケルン市で、そこからブーヘンヴァルト強制収容所に移送された一〇〇〇人のシンティ・ロマの人々を追悼する行事が行われ始めたのは九〇年五月だ。この年は、彼は犠牲者の居住地から移送のため集められた広場まで、仲間たちと路上に絵の具で線を引く芸術アクションを行っている。九三年の行事では広場に消えることの無い真鍮の板を埋め込んだ。ところが、それを見たひとりの女性が「私たちの街にチゴイナー(差別用語である)が住んでいたことなどあるわけない」と発言した。この体験が契機となり、「つまずきの石」が構想された。


 表面を真鍮の板で覆った一五センチ四方の敷石に、ナチ時代の忘れられた犠牲者の名前を刻んで、彼の元の住居の入り口の前の歩道に埋め込む芸術である。九五年にケルン市の二カ所で試作品の埋め込みが行われた。九七年には、ホモセクシャル、シンティ・ロマ、ナチス被迫害者などの団体とともに市役所に六〇〇個の「つまずきの石」埋め込みの許可申請がなされた。以来、この芸術活動は次第に全国に広がっていくのだが、ベルリンで二〇〇〇年に埋められたふたつの石が、この芸術がどのような意味を持つかをよく現している。


 南アフリカの喜望峰で一九五九年に生まれたスティーブン・ロビンスは、一九三〇年代にベルリンから南アフリカに家族の中でただ一人亡命に成功したユダヤ人の息子だ。
父親が彼に家族のアイディンティティー証明するものとして残したのは、九〇年に亡くなる前に人生を語った強いドイツ語なまりの英語の証言の録音テープと、親族が写っている二枚の写真だけであった。父親の証言は当時の南アフリカのアパルトヘイトとその後の和解の過程で、彼に手応えのあるアイディンティティーを掴みたい欲求をうながし続けた。

 アメリカのコロンビア大学で学位を得た後、生まれ故郷の大学で「ユダヤ人のアイディンティティー」を研究した。長い追求の旅の末に、ある厳冬の夜、彼はクロイツベルク区の、いまはトルコ人が多く住んでいる建物を突き止めることに成功した。父親の弟夫婦が移送される前に住んでいた住居だ。彼は二〇〇一年に、この叔父夫婦のふたつのつまづきの石を芸術家に注文(代金ひとつ九五ユーロ)して埋め込んでいる。これによって彼は初めて「自由なユダヤ人としてのアイディンティティー」を掴んだという。


 また、この地区のギムナジュウムでは、歴史の授業で地域の忘れられた犠牲者の掘り起こしが行われている。生徒たちは手分けして役所の古い住民台帳などを調査し、彼らの運命をたどるのだ。そして寄付を集めて注文する。この人たちの石が埋め込まれるときには、生徒は調査した人物についての短い報告をする。それは小さな儀式だ。こうしてドイツ人、トルコ人の若者たちが,見ず知らずの犠牲者たちに忘れられた名前と運命を返し続けている。


 先月、デムニッヒ氏がベルリンに埋めにやって来たので、その現場のひとつで話しを聴いた。「一番に嬉しいのは、生徒たちがあちこちで取り組んでくれていることです。これまで、全国で六〇〇〇個の石を埋めました。盗まれたり破壊されたのは、わずか三〇個ほどだけです。ウイーン、アムステルダム、遠くはオデッサまで広がってきています」と明るく元気の良い返事が返ってくる。「ユダヤ人だけでも六〇〇万個だから大変だ」ともいう。


 完成したホロコースト追悼記念碑は、毎日訪れる何千人もの者を呑み込んでしまう巨大な石柱の森だ。子供たちにとっては、格好の遊び場となっている。石柱を飛び跳ね、かくれんぼうが始まる。幼児は一瞬のうちに迷子になり母親たちがパニックに陥る。これがドイツ人が六〇年間悩み続けた贖罪碑の現実の微笑ましい情景の一面だ。苦悩とはかけ離れた光景だ。


 反対に、ほとんどの人は、この小さなつまずきの石を、それとは気付かず通り過ぎてしまう。だが、これがヨーロッパ全体に広がることになれば、差別やテロの無い社会となっているに違いないと予測できる。

・・・・・・・(後略)
これが、8年前の「つまずきの石」に関しての報告です。
それからこの運動はドイツ全国だけでなく、東西ヨーロッパ諸国にも広がり、いまでは何と38000の石が埋められており、ベルリンではつい最近、5000個目が埋められたと、この日の説明で知りました。
 デムニッヒ氏はこの年に連邦大統領から連邦功労賞を叙勲されており、それから爆発的に注文が増えたようです。
 さてこの日は、地域の市民40人ほどが指定された地下鉄の駅前に集まりました。老若男女、職業も何もかも別の平均的なベルリン市民で、教師もふたりいたようです。(故意に学校には呼びかけなかったようです。クラスで来られたら収拾がつかなくなるからです)だからこの日も歴史の教師が生徒なしでふたり参加していました。

 3時間ほどの間に、リタさんとスザンネさんという若い女性のふたりが、案内人として資料を手に、それぞれの石に刻まれている犠牲者の経歴を丁寧に説明してくれました。
それを聴きながら、参加者は布を手に真鍮磨きで石を磨き上げ、小さなろうそくを手向けました。その写真です。
石を磨く年配の女性たち。
©T.Kajimura
 ろうそくを手向ける若者。
©T.Kajimura
  資料を手にしているのが案内人のふたりです。どちらもボランティアで資料を捜し研究しているとのことです。
つまずきの石を磨き、ろうそくを手向ける市民 ©T.Kajimura
この日、わたしたちが巡ったのは数えませんでしたが、10カ所ほどの数10個の石でしょう。経歴が詳しく判っている人もあれば、名前と生年月日と死亡場所とその日付だけしか判っていない人もあります。それでもこの場所に居住したことのある犠牲者に名前を返したことになります。現在の住民の記憶に停まるからです。

 さて、その中のひとりにユリウス・モーゼス博士という名前がありました。
石に刻んであるのは「ここにユリウス・モーゼス博士が居住していた。1868年生まれ。1942年2月3日テレジーエンシュタットへ移送。1942年9月24日死亡」 の文字だけです。テレジーエンシュタットというのはチェコのテレジンというところにあった強制収容所のことです。
 リタさんたちの経歴の説明を聴いて、この人物がワイマール時代からの高名な医師であり、社会民主党の帝国国会議員であったことを知りました。女性の権利のために妊娠中絶も許されるべきとの、当時としては最も先進的な社会医療を主張したそうです。
Stolperstein Dr.Julius Moses 9.Nov.2913 ©T.Kajimura

 この人物の経歴は従って、詳しく研究もされているため下記のベルリンのつまずきの石のホームページにも→下の写真入りで記載されています

 リタさんたちもこれを参考に紹介してくれたのですが、これによると国会議員として徹底的にナチスに対抗したモーゼス氏は、33年のナチス権力掌握後の6月から12月までさっそく予防拘禁されており、35年のニュールンベルク人種法により、ユダヤ人ではない夫人と別れさされ、ユダヤ人だけを集めた近くの住居に移住を強制され、38年には医師としての開業も禁止され、上記のように42年強制収容所へ移送されています。生き延びたある同囚の証言によれば、そこで高齢の彼は最後まで未来に対する希望を失うことなく、餓死したとのことです。この信念のある高名な国会議員は、このようにナチスによってじわじわと殺されたのです。まさに悪法による暗殺です。

Dr.Julius Moses

 この報告では、前回に書きましたように日本の国会が特別秘密保護法案を決議し、立法府として自滅しつつあるので、日本の国会議員の皆さんに読んでいただきたく、この人物を採り上げて紹介しました。このような悪法に信念を持って抵抗する日本の国会議員も、多かれ少なかれ、モーゼス博士のような迫害に直面することは間違いないからです。

つまずきの石について詳しく知りたい方は以下を参考にしてください。 特にベルリンのHPは充実しており、グーグルの地図にすべてのつまずきの石の在処と、それぞれの経歴が判ります。

つまずきの石HP(英文あり)。 
デムニッヒ氏の個人HP。 
ベルリンのつまずきの石HP。

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